禅定寺縁起
■古代の宇治地方
そもそも、ここ宇治田原の地は、古来より宇治田原越・禅定寺越と称して、山城の国宇治より近江の瀬田または信楽地方に抜ける間道で、特に平安京以前にあっては、近江ひいては東海道に通じる軍事上の要路として注目された古道であった。
平安時代になって、洛南の宇治地方が、藤原氏一族の別荘地として脚光を浴びるようになるが、それは十世紀末から十一世紀にかけての藤原道長、特に子の頼道の頃からで、平等院をはじめ浄妙寺・白河金色院などで知られるが、禅定寺の土地はその先蹤をなしていたのである。
■創建前後と平崇上人
禅定寺の創建は、寺伝によれば、東大寺の別当であった平崇上人が正暦二年(991年)に私領の山野を卜定して、堂を建て、十一面観音像を安置したのに始まり、造営に五年の歳月を費やしたと云う。 次いで長保三年(1001年)に、上人は杣山一千町を含む田畠をこの寺に施入した。
山城近江国境井道筋絵図 平崇上人行業記
■藤原行成
因みに、我が国の三蹟の一人として有名な権大納言の藤原行成は、正暦四年(993年)の三月二十六日に、禅定寺に登ったが賢坂の辺りで気分が悪くなった。 そこで、この寺に五大堂を建立しようと願を立てたところ、たまため願力が効いて、たちどころに気分が回復したと彼の日記『権記』に書いている。 その後の日記にそれを裏付ける記載がないので、果たして五大堂を建立したのか否か確かめることができない。
行成が禅定寺を訪れたのは、寺伝にいう創建年時より二年後のことであり、この時点にはある程度の形が整っていたと考えてよい。創建して間のない行成の時代に、この禅定寺にまで足をのばした貴族は殆どなく、その意味では、この藤原行成などは最も早い例と云えよう。
ところで、この創建より数年前のこと、寛和二年(986年)宗より帰朝した東大寺僧の「然は、将来した文殊菩薩像をときの摂政・藤原兼家(道長の父)に寄進した。そこで兼家は自邸の東三条殿に文殊堂を建ててこの像を安置し、その御香の寄人として宇治田原の住人二十人を召し出したという。
このように、十世紀後半の当寺創建以前に宇治田原の地と藤原摂関家との間に、ある種の関係があったことは認めてよく、道長、頼道にいたって大きく発展していった。 特に頼道が興した平等院の管理下に入ったことは、禅定寺が平等院の末寺となっている事実からも明らかである。
■禅定寺寄人
ところでこの寄人は、はじめ御香寄人、東三条殿文殊堂寄人と呼ばれたが、後に禅定寺寄人と称されるようになるのは、宇治田原荘が禅定寺領となってからのことである。 彼らは寺僧の下にあって、常は農耕山樵に従事して生業を営んでいたが、事あるときには寄人として一般農民より上位にあって寺務に携わり、また平等院修正会の参勤、准后家、禅定寺殿下等への諸役の勤仕などに従事することもあった。
■禅定寺と藤原摂関家
禅定寺領としては、開祖の平崇上人が施入した土地の他に、頼道が父・道長より伝領した土地を寄進し、不輸租田としたものなど、その多くは所謂宇治田原荘の中に分布しており、杣山を含めて莫大な所領を有していた。 そして、これらの寺領は延久三年(1071年)別当覚勢阿闍梨のとき平等院に寄進され、これを領家とあおぎ、藤原摂関家を本所にいただくことによって所領の保全をはかった。 とりわけ関白・藤原忠実(富家殿)、四条宮ェ子(頼道の娘で後冷泉帝皇后)による寺領の寄進などもあり、忠通を経て近衛家の所領として伝領される過程で充実をみたと考えられる。 その実際の経営(管理支配)には、禅定寺僧の中から禅定寺大房留守職や山司職が補せられて荘務一般を執行した。
■利原上人
開山の平崇上人は長保四年(1002年)に七十七歳で示寂するが、その遺骸は当寺の後山に葬ったという(現在、裏山に開山および歴代上人の供養塔あり)。 そして、その年に利原上人(別当大法師)は開山上人の恩徳を偲んで、当寺で大斎会を設けて四十九日忌を営み、自らは梵網経を書写して墓所に供養し、翌々年には自ら資を投じて、従来使用していた三石の湯釜を改めて五石二斗の大場釜鋳造し、湯屋を修理して訪れる貴族達の沐浴に供した。 このことは寛弘二年(1005年)正月二十六日の利原上人の筆になる「開山行上記」に記されているところである。
平崇上人墓(禅定寺内)
■中興の祖 月舟禅師
延宝八年(1680年)加賀国大乗寺の月舟宗胡禅師を迎えることによってそれは果たされた。月舟禅師は再興に大いに努力し、とくに師に深く帰依していた加賀藩の家老・本多安房守政長の経済的援助を得て、下司職以下の村民の山林寄進などの協力のもと、諸堂を建立し、旧観に復することに成功した。 その意味では月舟禅師こそ禅定寺中興の祖と仰がれる人で、天台宗から禅宗(曹洞宗)に改宗されたのもこの十七世紀の終りからである。
因みに、ときの霊元天皇は当山へ行幸され、勅額を下賜された。
月舟宗胡像
■諸堂宇(伽藍)
禅定寺は、もと七堂が完備していたと伝えられるが、その伽藍配置などについては詳らかでない。 しかし、創建当初よりの本尊と考えられる十一面観音像を安置した本堂(五間四面)をはじめ、三昧堂、毘沙門堂、湯屋一宇などの諸堂が、鎌倉時代末期頃に存在したことは確実である。 因みに、現在の諸堂は月舟禅師のときのものである。
都名勝図絵より
■梵鐘
禅定寺の鐘について「禅定寺本堂椎鐘日記」の語るところによれば、平清盛や源頼朝たちが争う源平の世の治承五年(1181年)に沙弥寂西が願主となり荘民達がわずかな費用を出し合って鐘を鋳造した。 ところが、百二十年後の正安三年(1301年)に破損して、再び寺僧や荘民達が協力して改鋳された。 この鐘は、朝夕の他に非常時にも打ち鳴らされ、いうならば、荘民達の生活の支えであった。 しかし、この鐘も太平洋戦争で供出され、空しく鐘楼のみ残されたが、昭和五十四年(1979年)一人の参拝者である京都嵐山・中川武治氏の発願により、当時と同じ鐘を復古し山里に鐘の響きを取り戻すことができた。